黒田まさし「私の履歴書」

黒田まさしのプロフィール

黒田まさし「私の履歴書」

出生からサラリーマン生活まで
1959

4月13日誕生

この年の他の出来事

  • 明仁皇太子御成婚
  • 東京五輪開催が決定
1966

大阪市立鶴橋幼稚園 卒園

この年の他の出来事

  • ビートルズ来日
  • 札幌五輪の開催決定
1972

大阪市立鶴橋小学校 卒業

幼少期から小学生の間は、1年生の時に盲腸で入院している間をのぞき無遅刻無欠席と学校内では優等生でしたが、特に家庭で勉学に励むこともなく、学校から帰るとすぐにランドセルを置いて出かけ、同級生と夕暮れまで毎日近所の路地(猪飼野西3丁目、現在の桃谷3丁目)や公園 (いかるが公園、現在の桃谷公園)で遊ぶ日々を過ごしました。

その頃は近所で遊んでいると、祖父が「銭湯にいくぞ」と呼びに来て、祖父に身体を洗ってもらったり、祖父の大きな背中を洗うという時間が当時は正直いやでした。
しかし今思い出すと、祖父の愛情に満ちた顔しか思い浮かばず、現在でも、最も会って話したい人物です。祖父は明治生まれなのに180㎝をゆうに超える大柄で、杖のステッキを持った、映画「悪名」に出てくるシルクハットの親分のような風貌でした。文字通り親分肌という表現がピッタリな人でした。

この年の他の出来事

  • あさま山荘事件
  • 札幌五輪開催
1975

大阪星光学院中学校 卒業

中学校受験で私立(大阪星光学院)に進み、地元以外の同級生ばかりで、毎日聞くこと話すことが新鮮でした。

ある時、地理の教科書に生野区の記述があり、「食いはぐれたら生野か布施へ」という言葉にショックをうけていると、当時の教師が「生野と布施の人は手を挙げて」と言い、今では考えられない思い出として心に残っています。

入学してからしばらくして、仲良くなった友人からの誘いで卓球部に入部しました。当時は弱小チームでしたが、私たちが卒業してから府大会でも上位に食い込むことも増え、強豪校の仲間入りをしたようです。オリンピックでの日本勢の活躍も影響してか、部員数もテニス・サッカー部に次ぐ三番目の多さです。

この年の他の出来事

  • エリザベス女王来日
  • 大関・貴ノ花が初優勝
1978

大阪星光学院高校 卒業

中学・高校とそれなりに過ごしたという表現がピッタリかと思います。優等生でも、悪い仲間がいるわけでもなく。たまに、学校を抜け出して喫茶店に行く程度の反抗期でした。ある時、同級生と信号待ちをしていると、「邪魔や!」と同級生のお尻をキックした学生がいました。当時、界隈で有名な赤井英和さんでした。彼もヤンチャのさかりだったのでしょうが、私はその場で硬直してしまいました。

受験の時も深刻さ(真剣さ)が不足しており、何とか早慶1学部くらいは合格するだろうと安易に考え、受験した6学部全滅でした。

この年の他の出来事

  • 新東京国際空港(現成田国際空港)開港
  • 日中平和友好条約調印
1979

駿台予備校にて浪人

父親にしっかりと勉強するからとお願いし東京の駿河台予備校の東大コースを受け無事に入学できました(当時は学生も多く予備校も難関でした)。 

それから、予備校のある御茶ノ水駅の沿線である信濃町の風呂なしトイレ共同のアパートに下宿し、予備校に通う毎日でした。やはり、一人暮らしの受験勉強は波があり、根気が緩んだりした時期もありましたが、何とか早稲田大学に滑り込みました。

この年の他の出来事

  • 第2次オイルショック
  • 大学共通一次試験開始
1984

早稲田大学 卒業

大学に入学してすぐに、彼方会(かなたかい)という社会科学の学びを通じて友情を育むというサークルに入りましたが、入った理由は不純で、大雪の中で行われた入学式で風邪をひき、5日間高熱で休んでいたため、授業カリキュラムの申し込みの前日にようやくキャンパスに行ける状況で、勧誘してきた上級生からの 「面白い授業・教授、単位を取りやすい授業を教えるよ」 という言葉に乗っかったものでした。

それでも、当時のサークル仲間とはウマが合い、今でもたまに食事をする関係が続いており、偶然の出会いに感謝しております。

大学3年生になると、ゼミの受講となり、当時マルコ・ポーロ賞を受賞された霜田美喜雄先生(後の名誉教授)のもとで、「政治と宗教」というゼミを受講しました。もちろん宗教と言っても新興宗教ではなく、世界では戦争のきっかけになる宗教と政治の関わりがありますが、日本人には理解しがたく、一方で日本における宗教とほとんど関わりのない政治学 、まさに巷の政治学という位置づけでした。

当時は新興宗教があまり話題に上がることすらなく、カルトという言葉も耳にすることはありませんでした。そもそも、お金が大きな目的となっている時点で、現在話題になっている「新興宗教・カルト宗教」は宗教以前の問題だと考えます。

霜田先生はゼミ生の討論をいつも穏やかな笑顔で見ておられ、たまに言葉をはさまれるような講義でした。

その後、卒論の時期になりましたが、祖父(廣一)と父(輝夫)が大阪市会議員を務めており、父の同僚の議員の方々と話す機会も度々あり、そのことをテーマにしようと考えました。

二か月ほど部屋にこもり書き上げた卒論が「政治家になる動機と機会」です。同年の学部で最長論文賞をいただきました(最優秀では決してありません)。

ただし、論文を書きながらも自分の想いはは第三者的なもので、後々自身が出馬することも全く考えておりませんでした。

早稲田大学 大隈講堂

就職活動に入り、当時は証券会社・保険会社・商社・マスコミが人気を集めていましたが、私は最後は物を作っているものが強いのではないかという考えになり、メーカーに狙いを定めました。その中でゼミの先輩からの紹介で「ダイキン工業株式会社」に申し込み、あれよあれよという間に最終選考に残りました。

最後は6名同時の、社長・重役の皆さんを交えてのフリートークという斬新なスタイルで一人の学生がやたらと発言しリードしていましたが、私は後半になってようやく「発言ができてホッとしております。物おじするタイプでもないのですが、つい聞き入ってしまいました。」といい、これは落ちたかなと思いましたが、予想に反して内定をいただき、のちに人事に方から「まず一番しゃべる人は除外した」と聞き、そんなもんかと思いました。

多弁は決して金ではないようです。

早稲田大学 卒業式にて
1984

ダイキン工業株式会社入社

ダイキン工業というと、空調メーカーとして有名ですが、空調の売り上げは全体の約70パーセントに満たず、化学メーカー・ロボットメーカー・特機(銃弾など)メーカーの一面もあります。

その中で私が配属されましたのが、化学事業部合成樹脂営業部でした。ダイキン工業で扱っているものはフッ素化合物というもので、コンピューター室の消火剤や、エアコンのフロンガス、こびりつかないフライパンのフッ素加工の塗料などが有名ですが、自動車部品やロケットなどの航空機部品、半導体などの精密部品にも合成樹脂やフッ素ゴムが数多く使われております。

ダイキンは空調(エアコン)メーカーとして有名です

入社3年目に大阪本社から東京本社(両方本社で総務機能は大阪本社が担い、営業規模は東京本社が当時で3倍以上の規模でした。)に異動になりフッ素ゴム営業部が合成樹脂営業部から独立し、初代の部長が課長を兼任する組織で、まかせてもらっているという意識が芽生え、研究部門から営業部門に異動になってこられたベテラン技術者と東京中のみならず全国をまわる日々でした。しかもその方は「営業もしっかりとした技術力が必要」とのお考えから、出張中は移動の電車や時には夜行列車の中で技術的な知識を徹底的に教え込んでいただきました。

1番には製品の技術力、2番に自動車などの高機能化向上でフッ素ゴムは毎年150%の伸びで売れました。ゴム製品を加工するのが東京の下町墨東地区などに会社が多く、実際に技術力を説明する先は部品メーカー、さらにその先は自動車メーカー・家電メーカー・航空機メーカーなどとなり、東京本社にいながら、福岡・熊本・秋田・新潟・名古屋など、とにかく出張の多い日々でした。

研究者の方のご指導のおかげで、徐々に一人で技術的な説明もまかされるようになり、その頃の楽しみは移動時間の読書でした。私は、入り口は書店で平積みになっている本を適当に買い、面白ければ、必ずその作家の本を読破するというスタイルで、その癖は今でも続いております。ベストセラー作家が中心ですが、東野圭吾・伊坂幸太郎・誉田哲也・今野敏・堂場瞬一・塩田武士・柚木裕子・逢坂剛・前川裕らがおすすめです。

オフィスにて

話が脱線しましたが、当時記憶に強く残っているのが、ある商社の方から「黒田さん、メーカーの営業の力は情報力ですよ」と言われ、活動に取り入れたことがあります。それは、部品メーカーに行った際に、技術者や研究者の方々と面談するのが殆どだったのを、製造部門や検査部門、出荷部門、時には社員食堂や守衛室まで足を運び、顔を売って何気ない会話ができるようになり、競合他社の情報や社内の情報が得られるようになりました。

これは、何気ない会話から、要望やご意見をいただき活動にいかす、政治活動のモットーであるわかりやすい政治・身近な政治の原点 であったかもしれません。

サラリーマン生活の合間に父の選挙を手伝いました
黒田まさしの「政治家としての歩み」をまとめました。

政治家としての歩み

初当選から現在まで